開かれた多様な数学教育
をめざして
0.なぜこのような提案をするか?
今年から隔週2日の学校5日制が実施され、完全5日制へ向けての学習指導要領の改訂もようやく日程にのぼるようになった。一方、学校現場ではいじめ現象
が深刻さをまし、依然として続く偏差値体制のもとで、青年の未来に対する希望も逼塞状態から脱しているとはいえない。日本の社会や経済も、大震災やサリン
事件、長びく不況や貿易摩擦などにみられるように、21世紀へ向けて《手本なし》の時代にはいったといわれ、それらに対しても、学校教育は大きな転換期に
立たされている。
今のところ、政府・文部省は99年指導要領改訂へ向けてこれまでと同じ手順・手法によって事を進めようとしているが、それでは基本的な問題点は解決され
ず、いっそう規制を強める結果に終わりはしないか?
本提言は、学校での数学教育について、そうした基本的問題点を指摘し、可能な改善の方向を提案することによって、国民の間に議論を起こすことを願って作
成された。
1.日本の数学教育の現状
転換を求められていることでは、数学教育もまた例外ではない。2度にわたるIEA(国際到達度評価学会)の数学テスト(1964、1980/81)で
も、日本の子どもは計算力は抜群なのに、理解・応用となるとそれほどでもなく、数学に対する興味とか数学のもつ有用性・発展性といった意識になると、その
成績とは恐ろしく不釣合なほど悲観的なものであることが指摘されている。日本の学習指導要領によれば、小学校1年から高校2年あるいは3年まで、国際的に
も程度が高いといわれる内容を教えられ、その上受験のため多くの時間を数学学習に費やしながら、小学校でも多くの算数嫌い、中学校以上になると8割近い数
学嫌いを生み出している。
これはきわめてふしぎなことだと思わなくてはならない。問題がどこにあるのか、一度徹底的な議論が必要であろう。
戦後学習指導要領は何回か改訂されたが、その度ごとにぜい肉を落として「数学的」(?)になってきたともいえるが、反面現実的背景が切り捨てられること
によって、悪くいえば「形式的」(?)で、無内容なものに変わってきたとも見られる。いわゆる《学校数学》の形成である。何年生には何を教えるかというこ
とが何の疑いもなく、ほとんど固定的に信じられている。その一例は、昨年度から実施された改訂学習指導要領に対する教育現場の対応にも見られる。この新課
程によれば、高校1年の数学は形式的な「数と式」から始めなくても、より実質的な2次関数から始められるのに、そうしている学校は少数だといわれる(A県
の場合26%)。こうした固定的で形式主義的な数学観が教師自身を呪縛していることが問題であろう。
たしかに、指導要領は改訂ごとにきめ細かく規制され、一面ではたくさんの制約が設けられ、表面的にはやさしくなったかに見える。しかしそのことが、思い
切った飛躍をやりにくくし、実質的内容を希薄にして数学をかえってつまらないものにしているのではあるまいか? 同時にそのことが各学年の内容を固定化
し、硬直化した数学観をつくる一つの原因となっている。
また常に指摘されるように、入試問題の解法を中心とするいわゆる《受験数学》の重圧も、数学教育の硬直化に拍車をかけている。ミスを最小化するその技法
は、せっかく大学へはいれても、大胆な発想を妨げ、創造性を枯渇させていると大学関係者を嘆かせている。大学側は、高校学習指導要領の束縛のために、意味
のある問題づくりに難渋する一方、高校指導要領は大学入試問題をむずかしくしないための歯止めをいっぱいかけることによって、高校の数学の内容を平板なつ
まらないものにしている。この蟻地獄のような悪循環もどこかで断ち切らなくてはならない。
2.改善の基本的方向
きたるべき21世紀を考えてみよう。人口問題や環境問題が常に考慮され、節度のとれた個人生活と経済活動との調和が求められることは明らかである。これ
は、個人と全世界が直接結びつく時代であり、それにふさわしい部分対全体の計量(たとえば単位あたり量による認識)が不可欠となる。また、コンピュータや
各種通信手段の発達に対して、大局的な判断能力を失わないためには、数学のもつ構造主義的な思考法は大きく役に立つだろう。
現在の日本では、数学は理系のものという観念が強いが、21世紀がこのような総合的認識を必要とする時代なのであれば、数学はすべての国民、あるいはむ
しろ文系の人にとっても重要なものになろう。そもそも文系・理系といった区別自体意味を失うだろう。 数学が独自の形式と体系をもつこと、そしてそれが数
学の有効性の源泉でもあること、これは長い歴史の中で実証されてきたことである。他方、数学は現実の問題からも常に刺激を受けてきたし、また現実問題に戻
ることによっていっそうその意味を豊富にしてきた。簡単なことではないだろうが、数学のカリキュラムは、この形式と実質の両面で調和のとれたものでなくて
はならないことは明らかである。先述のように、今日の《学校数学》には、このいきいきとした交流が欠けて、単なる計算技術や作られた問題を解く自閉的なも
のになっている。
こうしたことを考えると、これからの数学教育の方向性を示す標語は、内容的には
よ り 実 質 的 な も の へ
ということであり、やり方としては、
開 か れ た 多 様 な 数 学 教 育 へ
ということになろう。
日本の数学教育の歴史の中で、こうした方向を模索したと思われる試みがまったくなかったわけではない。第2次大戦末期の理数科数学(『第1類』、『第2
類』)(1942)と戦争直後の文部省著作教科書『中学生の数学(第1学年用)』(1947)が、前者が戦時下での即戦力につながる科学技術の重視、後者
が個人の消費生活への適応中心という一面性をもっていたとはいえ、実質的な開かれた数学教育を志向していた点では、今日の時点からみて注目されてよい。
学習指導要領が思想・信条の自由に抵触するのではないかという違憲の疑いは、1958年の改訂以来常に問題となってきた。いくつかの裁判の判決にもかか
わらず、日の丸、君が代の強制にみられるように、この疑いは今日でも払拭されたとはいえない。
40年近くにもなる指導要領体制が、数学教育の硬直化・無内容化に一役買い、しかも教師の多様でダイナミックな教育実践を抑制しているのであれば、それ
は単に思想の自由という一般的な問題にとどまらず、緊急の教育学的問題でもある。これに教科書の検定制度が輪をかけているが、そうした画一化のもとは指導
要領にある。画一化され閉じた数学教育を改める最も手っ取り早い方法は、この指導要領を廃止するか、少なくとも戦争直後のように試案、あるいは大綱に戻す
ことであろう。そのようにすると、日本の数学教育の水準が維持できなくなるとか、際限なくむずかしくなると思う人がいるかも知れないが、それは杞憂という
ものである。情報化がすすみ、ダブルスクールといわれるほど民間の教育機関が多様化した時代に、文部省がすべてを規制できると思う方が時代錯誤であろう。
学習指導要領は明らかに学校教育の桎梏となっている。したがって、1999年改訂をめざす今日の議論においては、指導要領の性格と役割を、その存続も含
めて検討すべきである。
3.いくつかの具体的提案
指導要領体制を維持するとしても、その大幅な弾力化は避けられない。弾力的運用自身は文部省も奨励しているところだが、現状では、それはやりたくてもで
きない。少なくとも次のような具体的な指示を明記しなければ実効はない。
1)小学校は、低中高2学年ずつにまとめる。1/2年、3/4年、5/6年の境界をはずして、自由に順序を入れかえられるようにする。5日制に伴う内容
削減のため、かけ算の導入を3学年に、概数・概算を4学年に、分数の導入を5学年にくり下げ、関数としての比例は中学に送ることにすれば、それぞれの段階
の内容コードは、
整数/分離量、 小数/外延量、 分数/内包量
と明快に規定されることになる。
2)中学校は3学年まとめる。つまり3年間で達成すべき目標のみを定めて、その順序や指導法は問わない。
中学数学でこのことを格別強調したいのは、数学的にもおよそ無意味と思われる内容分割が行なわれているからである。たとえば、文字と式では、1年は1次
式、2年は整式、3年は乗除と分断されているので、1次式の定義にすら困るありさまである。方程式も1年は1元1次、2年は連立1次、3年は2次方程式と
分断されているため、現実問題の解決にとっての自然な形式を選択するという余地をなくしている。関数もまた1年は比例・反比例、2年は1次関数、3年は
y=ax2、そして一般の2次関数は高校数学 と細分されているために、関数の一般概念がつかめないのみか、数学は際限なくむずかしくなるというマイナス
イメージを抱かせる大きな原因となっている。
図形分野ではいわゆる「論証幾何」が強化されたが、大量の図形嫌い・論証嫌いを生み出している現実に目をつぶるべきではない。中2の段階にこのような中途
半端な論証を課することよりも、物の作成・地図・測量などのような実質的内容の充実をめざすべきであろう。
いうまでもなく、中学校は、興味と個性が分化する時期であり、数学についても例外ではない。とすれば、少なくとも中3以降は大幅な分化を許さなくてはな
らない。たとえば、分野別(A数式、B図形、Cその他)と必修・選択との組合せなど考慮さるべきだろう。とくに、「その他」の中には、コンピュータなどを
使いこなし、社会的問題解決を図るためのアルゴリズムの学習が含まれよう。
3)高校こそ、入試の束縛から解放された自由な教育が希望されるところだが、そのためには、前述のように学習指導要領の廃止こそ最善の方策と思われる。
指導要領とのリンクが切れることによって大学入試が際限なくむずかしくなると思うのは短絡である。不適切な問題およびそれを出す大学は淘汰されるだろう。
高校の方にしても同様である。 伝統的な代数・解析・確率などとともに、情報論やグラフ理論なども含めた多様な講座や、数学を使っての社会問題の解析など
が考えられるが、いずれにしても画一的な《受験数学》から、自由な探求と思索にもとづく発展的な学習が常態とならなくてはならない。
4.国民的議論による改訂を
数学教育の内容は数学者あるいは数学教師だけが考えるものだと思うのは大きな間違いである。数学教育が開かれたより実質的なものに転換すべきだとしたら
ますますそうだろう。日本ではたいていの国民が少なくとも小学校1年から高2までの11年間の数学教育を受けているから、幾世代にもわたるその体験の蓄積
は厖大なもののはずである。彼等の学校数学の経験と、社会へ出てのその有効性も含めて、これらの国民一般の評価と意見も当然参照されなくてはならない。さ
らに『子どもの権利条約』の精神からすれば、当事者である児童・生徒の声に耳を傾けることも考えられてよい。
これまでの指導要領の改訂にはそうした意見聴取が行なわれたことはなかったが、今の転換期にこそそれが行なわれるのにふさわしい。このささやかな提言が
そうした議論の発端になってくれれば、わたくし達の意図は半ば達成される。
1995年7月4日
〈発起人〉
安藤
洋美(桃山学院大学)
井上 正允(筑波大附属駒場中高)
何森 仁 (東邦大学非常勤)
市橋 公生(東野高校)
今井
義一(津田塾大学非常勤)
上垣 渉 (三重大学)
小沢
健一(清瀬高校)
木村
良夫(神戸商科大学)
銀林
浩 (明治大学)
小島 順 (早稲田大学)
小田切
忠人(琉球大学)
小寺 隆幸(東久留米中央中)
小林
道正(中央大学)
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榊
忠男 (数学教育研究者)
新海
寛 (信州大学)
鈴木 一巳(東十条小)
関沢
正躬(東京学芸大学)
瀬山 士郎(群馬大学)
野崎
昭弘(大妻女子大学)
馬場 良和(静岡大学)
増島
高敬(自由の森学園)
松井 保 (島根大学名誉教授)
丸山
哲郎(静岡大工業短期大学)
宮本 敏雄(元都立商科短期大学)
森
毅 (京都大学名誉教授)
山口 昌哉(龍谷大学) |
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